実は、この板碑はもともとこの場所にはなくて、矢倉姫神社への登山道口にあったという話を考古資料館館長からお聞きした。具体的なポイントは不明だが、いつのまにか移動されたらしい。
全体に船形をしており、上部の山形が尖りすぎ。上部の二本線が一本しかない。板圧がありすぎで、典型的な阿波型板碑の形式から言うと、たいぶ外れている。宮谷講中の連名も、江戸時代の石造物に引き継がれるパターンだ。
六地蔵板碑は他に市場町の大野寺(永和3年)にある。
天正12年と言う年号について。
近くに室町期に阿波に影響を持った一宮城があり、ここの略歴を示すと以下のようになる。
1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)小笠原長宗が、一宮宗成を滅ぼしこの地に城郭を築いて移り住む。
1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)細川頼之軍が一宮城に攻め入り麓周辺を焼き討ちにした。
1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)細川頼之軍と戦って破れ、一宮成行は北朝に下りその後細川氏の被官となった。
後に、細川氏に代わって三好氏が支配すると三好氏と姻戚関係を結んで、一宮城の12代城主一宮成祐は、三好家臣団の中でも重要な地位をしめる事になる。
1577年(天正5年)三好長治は細川真之を討伐するため荒田野の戦いとなったが、細川真之に応じて伊沢頼俊、一宮成祐らが兵を挙げ、三好長治軍の背後を脅かし、同年3月自害させた。この報を聞いた三好長治方の矢野国村は、勝瑞城で謀をめぐらし同年4月に伊沢頼俊の陣に攻めかけ滅ぼした。一宮成祐は孤立状態となり、香宗我部親泰を頼り長宗我部元親と誼を通じた。
1579年(天正7年)12月、脇城下で三好康俊・武田信顕らの謀略によって、矢野国村は三好軍と長宗我部軍との狭撃に遭い、討死。その後の矢野城は不明。
1580年(天正8年)一宮成祐は十河存保を忙殺しようとしたが、この事を察知した十河存保は十河城に逃れ、一宮成祐は念願の勝瑞城の城主となった。
1581年(翌天正9年)7月織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落とし、勝ちに乗じて勝瑞城を奪還し一宮城も攻めたが、一宮城は堅く安易には抜けず一宮成祐もよく防いだ。同年9月、長宗我部元親の名代が十河存保と面会し、2万余騎を率いて援軍に駆けつけると聞き、十河存保は囲みを解いて退却した。
1582年(天正10年)5月、三好康長は高屋城の戦いで織田信長に帰服し、織田政権の四国進出の先軍として阿波国に入国し、十河存保と共に一宮城と夷山城を収めた。ところが同年6月2日本能寺の変がおきると三好康長は急ぎ京に上がった。この機会を好機ととらえた長宗我部元親は2万3千兵を挙げて阿波国に侵入し、中富川の戦いで十河存保軍を破り阿波国を平定した。
1585年(天正13年)5月、羽柴秀吉の四国攻めでは主戦場の一つとなった。豊臣秀長が4万兵で攻城し一宮城は1万兵でよく守ったが、同年7月下旬開城した。
さて宮谷講中だが、地理的に考えると、鮎喰川をはさんだ一宮城よりかは、地元の矢野城に属していたと考えるほうだ妥当であろうが、矢野の大将は天正7年に死んでおり、その時点でどこに属したかはわからないが、一宮城の可能性が高い。
いずれにしても、天正10年には阿波国ほぼ全部が長宗我部に屈したので、長宗我部軍団の一宮軍の成員になっていたはずである。兵士としてか、支配される農民としてかはわからないが。
大きな地図で見る
宮谷講中20数名が修逆のために建てたと書いてあるらしい。地図に写っている西矢野地区が宮谷に相当すると思われる(未確認)が、全軒数に相当するのではないか。
修逆ってのは、「もしも自身の身に何かあった時は阿弥陀様よろしくね」ってことだそうだ。
天正13年。この地は焦土と化し、このあたりのすべての寺院・神社が焼失し、中世の記録が全部なくなってしまった。ここに記載された人たちの運命がどうなったか。知るすべってあるのだろうか?