2012年11月26日月曜日

徳島市国府町の板碑 P.1

筆者が現在までに調査した国府町の阿波型板碑について。
国府町は三つの地区に分かれているので、
P.1 旧国府町
P.2 旧南井上村
P.3 旧北井上村
の3ページ構成にした。

このページでは旧国府地区を扱う。

1989年に発行された徳島市教育委員会による「徳島市の石造文化財」を手がかりにした。ご指導をいただいた徳島市考古資料館館長のお話によると、この本の編集に加わったが、情報収集をボランティアなどに頼ったため不完全であると指摘されたし、20余年の間に破棄されたものもあるとのことだった。

配列は地域順とし、適当な番号を割り振ってゆく。大きさや書かれた文字情報については「徳島市の石造文化財」(以下、石と略記する)に記載されたものを元とし、足りない分については補うというふうにする。
採寸したものは、高さは地上高で地と表記。採寸していないものは「徳島市の石造文化財」の記載されているデータをそのまま記するが、信頼度は低い。

位置については、GoogleMapのPanoramioに同じ写真を掲載しているのでそれをいただけると幸いである。

再々調査したものについてのデータ等の書き換えを逐次行っているので、これらの記述は決定稿ではないのでその旨了解頂きたいとともに、時間をおいて改めてご覧いただきたい。

残念なことでるが、墓地の改修等で廃棄されつつある。板碑に関心がない人にとってはただの石ころにしかすぎないのだろうが、古い文化財が目の前で消えてゆくのはつらいものがある。

A 延命


常楽寺本堂南側に並べられている石碑群であるが、右から順に1番目、3番目、4番目、6番目が板碑と思われ、A1~4を割り振る。A1~5は(石23に集約されている)

A1 地118×60×9 読めない。盃状穴あり。

A2 地93×41×11 読めない

A3 大型板碑の残欠と思われる。五大種子(キャカラバア)が彫られいると思われる。

A4 地77×45×7 裏表反対向きに置かれている。弥陀三尊のように思える。


A5 地150×65×10  五大種子(キャカラバア) 盃状穴あり。 
常楽寺本堂裏側の山に入るあたりに今にも倒れてきそうなふうに建てられている。                                                 
                   
未調査のもの
(石24) 105×39×4 標識記載ない 延命源太


B 西矢野 



B1(石20) 135×55×18 線刻六地蔵板碑(内谷逆修講衆、天正十二年十二月吉日)興禅寺前



B2(石16) 地95×33×5 線刻五輪塔。国分寺北側の田の中。盃状穴あり。
       明徳三年三月七日

                                                    

B3(石61) 地87×52×3.5 阿弥陀種子 

上記の裏側に青石の断片がある。板碑かどうかの判定は困難。

                              

B4(石5) 72.5×24.5×5 弥陀三尊種子 [康]永三年十一月 矢野城跡

B5(石29) 33×32 弥陀三尊種子 上部下部欠損 手前に寝ているのがそれ。


B6(石なし) 地79×30×7 表面の剥落がはげしく、二重線・枠線も確認できない。線刻画像のように見えなくもないが。宮谷古墳北側のミカン畑のすぐ下。


B7(石なし) ??×37×5 この地蔵堂のすぐ裏に、たぶん元の地蔵堂と思われる、青石の板で囲われた部分があり、その中に板碑の断片を見つけることができた。上部は無く蓮華座のみが確認できる。隙間がないので写真撮影とか計測は困難。


興禅寺裏山の墓地の一番奥に板碑が三体立っている。右から、

B8(石なし) 地73×36×7 標識判定困難。

B9(石なし) 地53×24×4 弥陀三尊種子

B10(石なし) 地58×23×7 弥陀三尊種子



B11(石30) 地114×38×7 名号板碑となっているが、二重線と枠線がかろうじて判定できるかというレベル。常楽寺から国分寺への途中の道路わきの墓地に。



八倉比売神社参道(ただし現在の車道があるほうではなく宮谷古墳の南下を巡る道)に七枚並べられている。手前(向かって左)から五番目は不明、六番目は光明真言塔の一部なので、五体である。


B12(石なし) 地157×55×8 名号 自然石の枠内を成型し刻字している。したがって、寸法は地上行以外は適当。二重線も枠線もない。板碑ではなく墓石かも知れない。


B13(石なし) 地92×43×9 五大種子


B14(石なし) 地80×53×11 自然石に弥陀三尊を刻んでいる。枠線はあるが、二重線はない。これも墓石かも知れない。


B15(石31) 地92×42×7 弥陀三尊であるが、サとサクの位置が逆になっている。資料ではこの板碑だけが八倉比売神社参道となっている。


B14(石なし) 地66×33×7 弥陀三尊か五大種子か?二重線と枠線がかろうじて確認できる。


美馬家墓地に多数の板碑があり、六体調査することができた。



B15(石6) 地75×20×5 弥陀三尊種子 貞和三八月時正中 為西念十三也敬白 



B16(石8) 地35×24×3 上部下部欠損 弥陀三尊種子 延文三年六月二十六日 為沙弥内阿三十五敬白 



B17(石9) 地59×19×3 弥陀三尊種子 貞治三八月時正 為内西阿一同敬白 



B18(石60) 地30×30×3 線刻五輪塔の上四つで、地(ア)の部分化欠けている。
                                

B19(石なし) 地73×39(上)、44(下)×7 線刻五輪塔の一番下(地)の部分で、梵字のア。梵字の左側に明徳三年十二月十日、右側にも刻字があるが読解できず。



B20(石なし) 地65×19×5 弥陀三尊種子 年号等の刻字はない。


C 矢野


C1(石なし) 地68×28×7 弥陀三尊種子 考古資料館東方の田んぼの中の墓地の隅にある。墓地は矢野家らしい。すぐ北に庚申塔があり、中世寺院の杉本坊がこのあたりにあったと考えられないか?

                  

C2(石なし) 未採寸 破損していて全貌は不明。漆原家の塀に立てかけている。
梵字が二つ並んでいるのは特殊。左側はキリークであるが、右側のがわからない。蓮華座付き。二重線と枠線は確認できる。 

未調査のもの
(石62) 106×36×6 名号 国分寺

(石63) 90×38×6 名号 国分寺

(石64) 191×71×9 標識記載なし 国分寺

62または63と思われるものが文化の森博物館に展示されている。

          
国分寺北の交差点に遍路石(道標)があり、その奥に板碑と判定できない青石の板が数枚並んでいる。右端のにはたくさんの盃状穴があり、板碑だと名号板碑に特に多いので、参考まで。 

D 観音寺
    
         
               

D1(石65) 94×35×6 名号板碑 盃上穴あり 板東氏邸内

D2(石66) 78×62×7 不明 盃上穴あり 上記の背後にあり 

                
                             
D3(石67) 150×63×10 五大種子と思われる。上部が欠損した後、山形に整形したと思われる。
       盃上穴あり 舌洗い池西側

未調査のもの
(石68) 150× それ以外にデータの記載なし 他に二基 とある。 


E 中


E1(石45) 地130×53×9 アビラウンケンの梵字 千僧庵墓地
 
                

E2(石69) 地147×62×10 キリークの梵字とそれ以外に何か彫ってあるように思える。
       千僧庵墓地 盃上穴あり


E3~7 近藤種苗南方の田畑の中に、以前は庵だったと思える草むらの中に並んでいる。草が激しいので改めて調査しなくては。手前から順に、

E3(石なし) 大型板碑 天蓋付のキリークであろうか?2本線に切れ込みがある。

E4(石なし) 大型名号板碑

E5(石なし) 中型名号板碑

E6(石なし) 地上高は低いが中型と思われる。判読は困難。

E7(石なし) 中型弥陀三尊



E8(石なし) 地116×40×5 標識の判定は困難だが、下部に蓮華座を確認できる。道路わきの生け垣に囲まれた墓地。右となりの五輪塔も古さを感じる。

F 早淵



福万寺の板碑3体、右から順に、

F1(石なし) 地165×70×10 名号板碑、蓮華座あり

F2(石なし) 地110×36×9 名号板碑に思える

F3(石25) 地176×48×12 弥陀種子


G 府中


G1(石49) 90×50×6 弥陀三尊となっているが剥落しているため要確認。老人ホームライムから東へ行ったところの墓地に。


G2(石50) 地52×22×3.5 弥陀三尊 国府宮境内

G3(石51) 地71×44×7 上記の近くにあるのだが、破損がひどく判定が困難である。


G4(石52) 35.5×17.5×3.5 弥陀三尊 国府宮北側の庚申塔などが並んだ場所に。

                  
G5(石53) 100×33×7 名号板碑 裏側に盃上穴あり。府中駅北方。



大坊千輻寺の中庭に2体並んでいる。右側の弥陀三尊板碑は少し離れた庭木の下にあったのを移動したとのことである。

G6(石18) 地112×52×7 アビラウンケンの梵字 右意趣者為逆修善根頓証仏果 応永三十三年十月十五日結衆敬白 (1424年)

G7(石なし) 地40×24×3 弥陀三尊 右志者為と応永四年が読み取れる。


G8(石10) 地109×31×4 二尊種子(上が不空成就如来、下が大日如来の種子と考える) 右志者為光者○霊三十三回 貞治五年丙午年(1366年)八月時正中 府中田淵岸宅内 二つに割れているが標識や銘記は非常に良い状態である。


G9(石なし) 地57×35×4 キリークと思われる。岸家の南の畑の中にある。畑の手入れをしていたおばあちゃんの話だと、行き倒れのお遍路さんのための墓石だとか。ありえない話だとは思うのだが。


 
G10(石なし) 地87×35×6~8 バク(釈迦如来)と考える。蓮華座あり。
G11(石なし) 地81×35×5~8 上部が無くなっており、最上部に蓮華座が確認できる。

岸家南西の岸家所有の水田の中に位置する。幅がG9と同じなのでもしかするとG11の上部なのかもしれない。
G10とG11は幅・厚みが同じなので、双式板碑っていうのかな?


府中駅の西方、中筋の民家の裏手の墓地に超小型のが3体並んでおり、丁重に祭られている。古風な五輪塔断片もあり古さを感じる。コンクリートで固められているため、大部分の判定は不可能である。写真左から、

G12(石なし) 地13×15×3 二重線とキリークが読み取れる

G13(石なし) 地23×19×3 二重線とキリークが読み取れる

G14(石なし) 地30×25×4 剥落がはげしくのっぺらだが板碑であると確信する。

左手ほうの墓のようなのには弥陀三尊と南無阿弥陀仏と彫ってあり、元禄二年と読める。戒名がないので墓ではないのかもしれない。

                          

 府中駅の西の踏切から少し北に行ったところに、重田家の墓地があり、その中に祭られている。

 G15(石なし) 弥陀三尊 入手した資料によると、107×28×3 応永五年

 G16(石なし) 弥陀三尊 二体重なっている後ろので、分厚い。

             


 府中駅の二つ西の踏切北の田の中の墓地。いきさつは別ページを立てています。

 G17(石なし)  地55×27×6~10 標識、二重線、枠線を認めず。

 G18(石なし)  19×20×3 二重線とキリークの一部

未調査のもの
(石2) 70×45×6 弥陀三尊 建武三年 双式板碑


H 南岩延


H1(石39) 100×45×15 名号板碑 田んぼの中に南面して

H2(石40) 65×30×10 弥陀三尊 上記の左側西面して
              
                
               

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