国府町の板碑の内、このページでは旧南井上地区のものを扱う。
I 井戸
I1(石38) 地149×48×9 弥陀三尊のように思える。盃状穴あり。井戸寺境内。
その後、この板碑は廃棄され住職家の墓になっている。
I2(石なし) 地120×78×8 弥陀三尊 痛みが激しい。種子が大きく、当初はそうとうな大型板碑であったと思われる。井戸寺道路わき。
I3(石なし) 庚申塔の背後、左端のもの。地115×38×7 五大種子
I4(石なし) 左から2番目。地79×45×8 名号のように思える。右側が欠損している。
右側二基は板碑かどうかの判定が困難。井戸寺から南下した道路沿い。
J 花園
八幡神社境内社殿裏側に並んでいる。すべて弥陀三尊。左から、
J1(石35) 87×32×5.5 弥陀のみに蓮華座がつくとあるが三尊全部についていたように思える。
J2(石17) 47×20×4 応永三十三年
J3(石11) 68×22.5×4 貞治六年
J4(石37) 56×25×4.5 弥陀三尊 花園隅野神社境内 左半分が不完全。
花園不門寺跡とされるところにある。板碑の横には、大正八年の年号が入った宝篋印塔に不門寺と西方寺と彫られいるので、同名の寺が過去には存在していたと考えて良いと思われる。天正時代に長宗我部の軍隊がこのあたりを席巻したこともあるし、明治初頭の廃仏毀釈も体験しているだろうから。
元応というと、鎌倉時代末期、天皇家が後醍醐天皇に変わったあたりで南北朝動乱期には未だなっていない。阿波国はまだ細川氏の入部もなく、一宮氏の一宮城もない。激動直前の時代ということになる。
J5(石1) 地135×37×7? 弥陀三尊 元応二(1320)年 いくつかのパーツに割れているため、コンクリートで周囲と背後全面を補強し、また割れ目も接着している。
コンクリートの厚みが14cmあるので板碑の厚みは半分として6~7cmとして妥当だはないか。
ただ、コンクリート自体が、古い時代のものと思われ、崩壊しつつある。改めて修理の必要を封緘する。なんたって、徳島市内では最も古いとされるのだから。
J6(石36) 地20×20×6 弥陀三尊 (石)には二つに割れていると書かれているが、現在この地に残っているのは、左下の小さいパーツのみ、標識はキリークが確認できるのみである。過去には下半分も残っていたのであろう。
J7(石なし) 未採寸 弥陀三尊と思われるが痛みが激しい。隅野神社北方の墓地。
花園の集落のすぐ北側に位置する墓地内。
J8(石なし) 地82×27×4 名号板碑
J9(石なし) 地65×20×3.5 弥陀三尊
花園集落の一番東に位置する屋敷の東側の墓地に建っている。江戸時代の墓が東面しているのに対しこれらは北面している。左から、
J10(石なし) 57×25~27×4 おそらく弥陀三尊で、キリークの下に蓮華座があるように見える。
年記もあるように思える。拓本を取れば確認できるかも。
J11(石なし) 46×18×4 弥陀三尊
K 日開
K1(石13) 125×55×6.5 線刻六地蔵 応安八年 日開高屋敷法光寺境内
この槙の木の根元に6体の板碑が確認できた。(石33)と(石34)の日開北中筋に相当すると思われるがどれ?
K2 地63×23×3 弥陀三尊
K3 全長45×20×2.5 弥陀三尊と思われる
K4 全長49×33×5 キリークと二本線と枠線が確認できる。
K5 全長74×20×2.5 弥陀三尊
K6 全長63×29×3.5 弥陀三尊と思われる
K7 地60×34×4 右側に枠線が確認できる
K8(石32) 地34×18×5.5 弥陀三尊
K9(石57) 全長49×20×6 弥陀三尊 この二体は日開寄道の手川家の墓地である。小型の割りに厚ぼったく、後世の墓石に通じると考えるが。
K10(石56) 30×30×3 榎本家墓地
K11(石なし) 記載がない。
この二体の板碑は、墓地改修のために撤去されたようだ。
K12(石なし) 地53×24×5 徳島大学薬学部付属植物園のすぐ西側の墓地。剥落が激しいが、二本線がかすかに確認できる。左側枠線も見えなくもない。標識は確信が持てないが弥陀三尊ではないだろうか。両側に並ぶ墓石は古く、延宝や元禄がみてとれる。
未調査のもの
(石58) 55×43 記載された情報量が少ない。
(石59) 45×50 他三基 となっているが記載された情報量が少ない。
(石55) 80×45×10 日開福家宅
L 敷地
L1(石54) 121×44×5.5 名号板碑
L2(石なし) 47×33×6 名号板碑なのだが、大部分コンクリートの下。道路わきのものは、庚申塔、高地蔵、光明真言塔などといっしょに祭られているものが多々ある。古来通行量が多かった、あるいは人が集まりやすかった場所だと考えられる。
L3(石なし) 地96×43×4 名号板碑で、名号の上にキリークの梵字が彫られている。久米家の墓地のようで由緒があるのだろう。
M 池尻
池尻公会堂東側の板碑群。16体あるのだが、手前3体はこちら向き、あとは後姿。撮影が難しいのね。(石47)(石48)の相当。手前左から01~03、後ろ左から04~16を割り振る。名号あり、三尊あり、線刻画像ありのフルコースだがすべて阿波型板碑である。破損のためと、コンクリートで固められたために上半部のみが現れている感じである。
M01 地59×41×5.5 南と読めるのではないか?
M02 地110×65×7.5 五大種子か?
M03 地80×42×8 板碑である痕跡が見られない。
M04 地115×42.5×6 ここの板碑群の中ではもっとも完全な。名号板碑だが、佛の字から下が埋まっている。
M05 地82×34×4.5 弥陀三尊種子がうっすら残っている。
M06 地95×33×6.5 弥陀三尊種子と思われる。
M07 地105×36×5 たぶん弥陀三尊。
M08 地82×31×5 弥陀三尊種子
M09 地79×27×6 たぶん弥陀三尊。
M10 地74×33×5 二重線と南の文字、枠線の一部が残っている。
M11 地70×37×4 線刻画像板碑。枠線と二重線の一部が残っている。
M12 地56×36×8 南の文字が残っている。厚ぼったいのが気になる。
M13 地62×39×5 枠線と二重線、南無阿まで。M04より少しだけ小型。
M14 地51×36×7.5 上部がきれいに切り取られている。蓮華座付のキリークのみ。左右と下部の枠線が認められる。厚みがあることから、本来はどんな形状だったのだろうか?
M15(石19) 地49×36×6 弥陀三尊 定本禅 三月 と読める。
(石)によると 定本禅定門 永正八年[春季]三月十八日
M16 41×38×3.5 キリークのみが見える。
(石3) 地85×42×5 標識記載なし 建武三年十二月三日がどれかに相当するのか、しないのか?
M17(石46) 地120×43×6 弥陀三尊 すべてに蓮華座がつく。
M18 (石なし) 地79.5×29.5×4.5 弥陀三尊 剝落がはげしいが、二重線ははっきりわかる。種子はかろうじて。
知り合いのB氏と雑談をしていたら、「うちの墓地にあるのもそうかな」と言うことで調べたら、ピンポンでした。(2017年9月1日追加)
N 桜間
桜間には(石)には26、27、28(他二基)の5体が記載されている。どれもが名号板碑らしくって、どれに相当するのかはわからない。名東郡史のよると、断片を含めてすべてこの地のあったのだが、洪水で流出したとある。
N1(石27) 地117×56×10 名号 盃状穴あり この背後に厚さ5cmの断片と思われるものがある。
O 川原田
隅野神社境内に2体祭られている。左から、
O1(石なし) 地88×34×8 線刻五輪塔の中に五大種子が彫られているように思える。
O2(石なし) 地63×44×7 キリークはわかるが、それ以外にも彫られているのか?
P 高輪
P1(石3) 地110×36×4.5 名号板碑。貞治七年の銘がある。名号の下に蓮華座があり、さらにその下に蓮華を差した花瓶が1対描かれている。吉輪庵跡ということで、板碑の手前には延宝五年の庚申塔、右手には重ねた丸い石の塔群、離れたところには六地蔵と思われる小石仏が積まれている。
P1の北方の田畑の中の小森に祭られている。地主のT氏によると、先代がコンクリートで固めたとか。よって我々は今見ることができる。右から、丸い石積みを挟んで、ただし4番目は板碑ではないと思われるので省く。
P2(石なし) 地62.5×26.5×3 名号板碑
P3(石なし) 地40×21×4.5 外観は整っているが標識判定は不可。
P4(石なし) 地27×18×4.5 上部は欠落し、枠線が一部に残っている。弥陀三尊と読みたい。
P5(石なし) 地25×24×3 損傷が激しいため判定は困難であるが、側面の加工具合から板碑の残欠であると思われる。
飯尾側に近いキャベツ畑の中の墓地の脇に三体ある。四つ見えるが、真ん中の傾いている一つは違うと思われる。右から、
P6(石なし) 地27×17×3 弥陀三尊
P7(石なし) 地54×28×4 弥陀三尊
P8(石なし) 地65×30×5 弥陀三尊
未調査
(石77) 120×48×6 名号板碑