2012年12月24日月曜日

徳島市国府町の板碑 P.3

このページでは旧北井上村を扱う。

Q 芝原


蔵珠院には3体の板碑が残されており、すべて弥陀三尊が描かれていたと思われる。痛みが激しい。右から、
Q1(石41) 114×34×6.5 

Q2(石43) 168×60×9

Q3(石42) 127×45×7.5 すべてに蓮華座がついている。  

威徳院には徳島市指定有形文化財の三摩耶形板碑が2体残されている。下の写真で両側の大型のもの。


写真の右から、

Q3(石7) 地189×65×9~13 弥陀三尊 貞和三年(1347)

Q4(石なし) 地105×37×5 痛みが激しく、名号のようにも思える。

Q5(石なし) 地110×33×6.5 たぶん名号

Q6(石14) 地230×66×? 弥陀三尊 永和四年(1378) 折れていたものを一回り大きな板に貼り付けて修復しているので、厚みはわからない。年記などの文字は明瞭。

Q7(石なし) 未測定 名号 Q8とともに無縁墓の最上段に祭られている。痛みがはげしい。

Q8(石なし) 未測定 無造作に転がされているており弥陀三尊と貞和三が読み取れ、以下が消失。あと、何個かの青石の断片があり、詳しく調査するとおもしろいかもしれない。



Q9(石15) 地160×63×11 阿弥陀画像 康暦云々とある  蔵珠院・威徳院の南方の墓地



Q10(石なし) 地77×38×6~10 標識不明 蔵珠院を山門を入ったすぐの植え込みの中にある。


Q11(石なし) 未測定 八幡神社の東にある集会所の敷地内に。画像板碑のように見えるが。下部両側に文字と思われる痕跡がある。拓をとれば読めるのではないか?

              
                                                               
岡田家墓地に五体並べられている。右から順にQ12~16(石なし)とする。すべて弥陀三尊。


Q12(石なし) 地86×32×5 為祐尊七分全得也 応安八年三月十日 


Q13(石なし) 地59×25×4.5 為過去孫七霊修之敬白 延文四年十一月二日

Q14(石なし) 地50×17×3 


Q15(石なし) 地55×19×5 為○香阿三十五日 応安七年七月

Q16(石なし) 地50×17×3



芝原城跡(城主は久米氏)言われているところに米家があり、庭のはずれに板碑が二体並んでいる。

Q17(石なし) 未採寸 手前の物であるが、下部中央にキリークがわかる。

Q17(石なし) 未採寸 奥のものだが、頭のみか出ている。二重線はくっきりしている。


未調査のもの

(石44) 160×60×10 南芝原墓地で修理の必要があるとあるが、標識の記載がない。Q7に相当するのかな?



R 西黒田



竜王板碑群として龍蔵堤に7体並んでいる。右から、

R1(石70) 地77×30×7 弥陀三尊 上部欠損

R2(石71) 地69×30×6.5 弥陀三尊

R3(石72) 地129×38×8 梵字と名号 なんの梵字なのか勉強不足。 

R4(石4) 地96×37×5 名号 建武四年云々 埋もれている部分に年記などの過半があるはず。

R5(石73) 地77×24×3.5 弥陀三尊 すべてに蓮華座がつく。

R6(石74) 地43×27×6.5 弥陀三尊 紅廉片岩が使用されている。上部欠損

R7(石なし) 地57×24×7 弥陀三尊 倒れて埋もれかかっていたので、とりあえず起こしておいた。


千蔵寺の山門をくぐって右手に塀に沿って石造物が並んでいる。向かって右から、

R8(石76) 地70×37×6 弥陀三尊となっているがほとんど認識できない。

R9(石75) 地130×43×8 名号、これも確認しずらい。

R10(石なし) 地58×28×7 板碑の下半分と考えられる。肝心な上半分がないのだが、両側の細工が板碑のようである。
                             

                             

R11(石なし) 地50×27×5 弥陀三尊 南郷集会所のある神社境内、横の庚申塔はさらに小さい。

            

千蔵寺の北東の田んぼの中に、小さな墓地がある。

R12(石なし) 小型の板碑でたぶん弥陀三尊。左側は板碑の断片と思われる。右側のは凝灰岩の五輪塔の一部分で、室町時代のものであろう。
                           
S 東黒田



S1(石76) 地84×39×8 表面がほとんど剥落してしまっているため標識や二本線はまったく確認できない。右側に枠線の一部が確認できるのみ。盃状穴がある。右隣の青石には阿弥陀如来と彫られている。


以上であるが、データ等の更新は続けていく。

2012年12月7日金曜日

徳島市国府町の板碑 P.2

国府町の板碑の内、このページでは旧南井上地区のものを扱う。

I 井戸


I1(石38) 地149×48×9 弥陀三尊のように思える。盃状穴あり。井戸寺境内。
その後、この板碑は廃棄され住職家の墓になっている。


I2(石なし) 地120×78×8 弥陀三尊 痛みが激しい。種子が大きく、当初はそうとうな大型板碑であったと思われる。井戸寺道路わき。



I3(石なし) 庚申塔の背後、左端のもの。地115×38×7 五大種子

I4(石なし) 左から2番目。地79×45×8 名号のように思える。右側が欠損している。

右側二基は板碑かどうかの判定が困難。井戸寺から南下した道路沿い。


J 花園

                 
八幡神社境内社殿裏側に並んでいる。すべて弥陀三尊。左から、

J1(石35) 87×32×5.5 弥陀のみに蓮華座がつくとあるが三尊全部についていたように思える。

J2(石17) 47×20×4 応永三十三年

J3(石11) 68×22.5×4 貞治六年


J4(石37) 56×25×4.5 弥陀三尊 花園隅野神社境内 左半分が不完全。



花園不門寺跡とされるところにある。板碑の横には、大正八年の年号が入った宝篋印塔に不門寺と西方寺と彫られいるので、同名の寺が過去には存在していたと考えて良いと思われる。天正時代に長宗我部の軍隊がこのあたりを席巻したこともあるし、明治初頭の廃仏毀釈も体験しているだろうから。
元応というと、鎌倉時代末期、天皇家が後醍醐天皇に変わったあたりで南北朝動乱期には未だなっていない。阿波国はまだ細川氏の入部もなく、一宮氏の一宮城もない。激動直前の時代ということになる。

J5(石1) 地135×37×7? 弥陀三尊 元応二(1320)年 いくつかのパーツに割れているため、コンクリートで周囲と背後全面を補強し、また割れ目も接着している。
コンクリートの厚みが14cmあるので板碑の厚みは半分として6~7cmとして妥当だはないか。
ただ、コンクリート自体が、古い時代のものと思われ、崩壊しつつある。改めて修理の必要を封緘する。なんたって、徳島市内では最も古いとされるのだから。

J6(石36) 地20×20×6 弥陀三尊 (石)には二つに割れていると書かれているが、現在この地に残っているのは、左下の小さいパーツのみ、標識はキリークが確認できるのみである。過去には下半分も残っていたのであろう。
 




J7(石なし) 未採寸 弥陀三尊と思われるが痛みが激しい。隅野神社北方の墓地。


花園の集落のすぐ北側に位置する墓地内。

J8(石なし) 地82×27×4 名号板碑

J9(石なし) 地65×20×3.5 弥陀三尊



花園集落の一番東に位置する屋敷の東側の墓地に建っている。江戸時代の墓が東面しているのに対しこれらは北面している。左から、

J10(石なし) 57×25~27×4 おそらく弥陀三尊で、キリークの下に蓮華座があるように見える。
年記もあるように思える。拓本を取れば確認できるかも。

J11(石なし) 46×18×4 弥陀三尊


K 日開

               
K1(石13) 125×55×6.5 線刻六地蔵 応安八年 日開高屋敷法光寺境内

                                
この槙の木の根元に6体の板碑が確認できた。(石33)と(石34)の日開北中筋に相当すると思われるがどれ?

K2 地63×23×3 弥陀三尊

K3 全長45×20×2.5 弥陀三尊と思われる

K4 全長49×33×5 キリークと二本線と枠線が確認できる。

K5 全長74×20×2.5 弥陀三尊

K6 全長63×29×3.5 弥陀三尊と思われる

K7 地60×34×4 右側に枠線が確認できる

                   
K8(石32) 地34×18×5.5 弥陀三尊 

K9(石57) 全長49×20×6 弥陀三尊 この二体は日開寄道の手川家の墓地である。小型の割りに厚ぼったく、後世の墓石に通じると考えるが。

                 
K10(石56) 30×30×3 榎本家墓地
 
K11(石なし) 記載がない。

この二体の板碑は、墓地改修のために撤去されたようだ。



K12(石なし) 地53×24×5 徳島大学薬学部付属植物園のすぐ西側の墓地。剥落が激しいが、二本線がかすかに確認できる。左側枠線も見えなくもない。標識は確信が持てないが弥陀三尊ではないだろうか。両側に並ぶ墓石は古く、延宝や元禄がみてとれる。

未調査のもの
(石58) 55×43 記載された情報量が少ない。

(石59) 45×50 他三基 となっているが記載された情報量が少ない。

(石55) 80×45×10 日開福家宅


L 敷地

                    
L1(石54) 121×44×5.5 名号板碑

                    
L2(石なし) 47×33×6 名号板碑なのだが、大部分コンクリートの下。道路わきのものは、庚申塔、高地蔵、光明真言塔などといっしょに祭られているものが多々ある。古来通行量が多かった、あるいは人が集まりやすかった場所だと考えられる。


L3(石なし) 地96×43×4 名号板碑で、名号の上にキリークの梵字が彫られている。久米家の墓地のようで由緒があるのだろう。 


M 池尻

                  
池尻公会堂東側の板碑群。16体あるのだが、手前3体はこちら向き、あとは後姿。撮影が難しいのね。(石47)(石48)の相当。手前左から01~03、後ろ左から04~16を割り振る。名号あり、三尊あり、線刻画像ありのフルコースだがすべて阿波型板碑である。破損のためと、コンクリートで固められたために上半部のみが現れている感じである。

M01 地59×41×5.5 南と読めるのではないか?

M02 地110×65×7.5 五大種子か?

M03 地80×42×8 板碑である痕跡が見られない。

M04 地115×42.5×6 ここの板碑群の中ではもっとも完全な。名号板碑だが、佛の字から下が埋まっている。

M05 地82×34×4.5 弥陀三尊種子がうっすら残っている。

M06 地95×33×6.5 弥陀三尊種子と思われる。

M07 地105×36×5 たぶん弥陀三尊。

M08 地82×31×5 弥陀三尊種子

M09 地79×27×6 たぶん弥陀三尊。

M10 地74×33×5 二重線と南の文字、枠線の一部が残っている。

M11 地70×37×4 線刻画像板碑。枠線と二重線の一部が残っている。

M12 地56×36×8 南の文字が残っている。厚ぼったいのが気になる。

M13 地62×39×5 枠線と二重線、南無阿まで。M04より少しだけ小型。

M14 地51×36×7.5 上部がきれいに切り取られている。蓮華座付のキリークのみ。左右と下部の枠線が認められる。厚みがあることから、本来はどんな形状だったのだろうか?

M15(石19) 地49×36×6 弥陀三尊 定本禅 三月 と読める。
(石)によると 定本禅定門 永正八年[春季]三月十八日

M16 41×38×3.5 キリークのみが見える。

(石3) 地85×42×5 標識記載なし 建武三年十二月三日がどれかに相当するのか、しないのか? 

                    
M17(石46) 地120×43×6 弥陀三尊 すべてに蓮華座がつく。


M18 (石なし) 地79.5×29.5×4.5 弥陀三尊 剝落がはげしいが、二重線ははっきりわかる。種子はかろうじて。
知り合いのB氏と雑談をしていたら、「うちの墓地にあるのもそうかな」と言うことで調べたら、ピンポンでした。(2017年9月1日追加) 

N 桜間

                
桜間には(石)には26、27、28(他二基)の5体が記載されている。どれもが名号板碑らしくって、どれに相当するのかはわからない。名東郡史のよると、断片を含めてすべてこの地のあったのだが、洪水で流出したとある。

N1(石27) 地117×56×10 名号 盃状穴あり この背後に厚さ5cmの断片と思われるものがある。


O 川原田


隅野神社境内に2体祭られている。左から、
                
O1(石なし) 地88×34×8 線刻五輪塔の中に五大種子が彫られているように思える。

O2(石なし) 地63×44×7 キリークはわかるが、それ以外にも彫られているのか?



P 高輪

                                
P1(石3) 地110×36×4.5 名号板碑。貞治七年の銘がある。名号の下に蓮華座があり、さらにその下に蓮華を差した花瓶が1対描かれている。吉輪庵跡ということで、板碑の手前には延宝五年の庚申塔、右手には重ねた丸い石の塔群、離れたところには六地蔵と思われる小石仏が積まれている。


P1の北方の田畑の中の小森に祭られている。地主のT氏によると、先代がコンクリートで固めたとか。よって我々は今見ることができる。右から、丸い石積みを挟んで、ただし4番目は板碑ではないと思われるので省く。

P2(石なし) 地62.5×26.5×3 名号板碑

P3(石なし) 地40×21×4.5 外観は整っているが標識判定は不可。

P4(石なし) 地27×18×4.5 上部は欠落し、枠線が一部に残っている。弥陀三尊と読みたい。

P5(石なし) 地25×24×3 損傷が激しいため判定は困難であるが、側面の加工具合から板碑の残欠であると思われる。

 
飯尾側に近いキャベツ畑の中の墓地の脇に三体ある。四つ見えるが、真ん中の傾いている一つは違うと思われる。右から、

P6(石なし) 地27×17×3 弥陀三尊

P7(石なし) 地54×28×4 弥陀三尊

P8(石なし) 地65×30×5 弥陀三尊

未調査
(石77) 120×48×6 名号板碑                                

2012年11月26日月曜日

徳島市国府町の板碑 P.1

筆者が現在までに調査した国府町の阿波型板碑について。
国府町は三つの地区に分かれているので、
P.1 旧国府町
P.2 旧南井上村
P.3 旧北井上村
の3ページ構成にした。

このページでは旧国府地区を扱う。

1989年に発行された徳島市教育委員会による「徳島市の石造文化財」を手がかりにした。ご指導をいただいた徳島市考古資料館館長のお話によると、この本の編集に加わったが、情報収集をボランティアなどに頼ったため不完全であると指摘されたし、20余年の間に破棄されたものもあるとのことだった。

配列は地域順とし、適当な番号を割り振ってゆく。大きさや書かれた文字情報については「徳島市の石造文化財」(以下、石と略記する)に記載されたものを元とし、足りない分については補うというふうにする。
採寸したものは、高さは地上高で地と表記。採寸していないものは「徳島市の石造文化財」の記載されているデータをそのまま記するが、信頼度は低い。

位置については、GoogleMapのPanoramioに同じ写真を掲載しているのでそれをいただけると幸いである。

再々調査したものについてのデータ等の書き換えを逐次行っているので、これらの記述は決定稿ではないのでその旨了解頂きたいとともに、時間をおいて改めてご覧いただきたい。

残念なことでるが、墓地の改修等で廃棄されつつある。板碑に関心がない人にとってはただの石ころにしかすぎないのだろうが、古い文化財が目の前で消えてゆくのはつらいものがある。

A 延命


常楽寺本堂南側に並べられている石碑群であるが、右から順に1番目、3番目、4番目、6番目が板碑と思われ、A1~4を割り振る。A1~5は(石23に集約されている)

A1 地118×60×9 読めない。盃状穴あり。

A2 地93×41×11 読めない

A3 大型板碑の残欠と思われる。五大種子(キャカラバア)が彫られいると思われる。

A4 地77×45×7 裏表反対向きに置かれている。弥陀三尊のように思える。


A5 地150×65×10  五大種子(キャカラバア) 盃状穴あり。 
常楽寺本堂裏側の山に入るあたりに今にも倒れてきそうなふうに建てられている。                                                 
                   
未調査のもの
(石24) 105×39×4 標識記載ない 延命源太


B 西矢野 



B1(石20) 135×55×18 線刻六地蔵板碑(内谷逆修講衆、天正十二年十二月吉日)興禅寺前



B2(石16) 地95×33×5 線刻五輪塔。国分寺北側の田の中。盃状穴あり。
       明徳三年三月七日

                                                    

B3(石61) 地87×52×3.5 阿弥陀種子 

上記の裏側に青石の断片がある。板碑かどうかの判定は困難。

                              

B4(石5) 72.5×24.5×5 弥陀三尊種子 [康]永三年十一月 矢野城跡

B5(石29) 33×32 弥陀三尊種子 上部下部欠損 手前に寝ているのがそれ。


B6(石なし) 地79×30×7 表面の剥落がはげしく、二重線・枠線も確認できない。線刻画像のように見えなくもないが。宮谷古墳北側のミカン畑のすぐ下。


B7(石なし) ??×37×5 この地蔵堂のすぐ裏に、たぶん元の地蔵堂と思われる、青石の板で囲われた部分があり、その中に板碑の断片を見つけることができた。上部は無く蓮華座のみが確認できる。隙間がないので写真撮影とか計測は困難。


興禅寺裏山の墓地の一番奥に板碑が三体立っている。右から、

B8(石なし) 地73×36×7 標識判定困難。

B9(石なし) 地53×24×4 弥陀三尊種子

B10(石なし) 地58×23×7 弥陀三尊種子



B11(石30) 地114×38×7 名号板碑となっているが、二重線と枠線がかろうじて判定できるかというレベル。常楽寺から国分寺への途中の道路わきの墓地に。



八倉比売神社参道(ただし現在の車道があるほうではなく宮谷古墳の南下を巡る道)に七枚並べられている。手前(向かって左)から五番目は不明、六番目は光明真言塔の一部なので、五体である。


B12(石なし) 地157×55×8 名号 自然石の枠内を成型し刻字している。したがって、寸法は地上行以外は適当。二重線も枠線もない。板碑ではなく墓石かも知れない。


B13(石なし) 地92×43×9 五大種子


B14(石なし) 地80×53×11 自然石に弥陀三尊を刻んでいる。枠線はあるが、二重線はない。これも墓石かも知れない。


B15(石31) 地92×42×7 弥陀三尊であるが、サとサクの位置が逆になっている。資料ではこの板碑だけが八倉比売神社参道となっている。


B14(石なし) 地66×33×7 弥陀三尊か五大種子か?二重線と枠線がかろうじて確認できる。


美馬家墓地に多数の板碑があり、六体調査することができた。



B15(石6) 地75×20×5 弥陀三尊種子 貞和三八月時正中 為西念十三也敬白 



B16(石8) 地35×24×3 上部下部欠損 弥陀三尊種子 延文三年六月二十六日 為沙弥内阿三十五敬白 



B17(石9) 地59×19×3 弥陀三尊種子 貞治三八月時正 為内西阿一同敬白 



B18(石60) 地30×30×3 線刻五輪塔の上四つで、地(ア)の部分化欠けている。
                                

B19(石なし) 地73×39(上)、44(下)×7 線刻五輪塔の一番下(地)の部分で、梵字のア。梵字の左側に明徳三年十二月十日、右側にも刻字があるが読解できず。



B20(石なし) 地65×19×5 弥陀三尊種子 年号等の刻字はない。


C 矢野


C1(石なし) 地68×28×7 弥陀三尊種子 考古資料館東方の田んぼの中の墓地の隅にある。墓地は矢野家らしい。すぐ北に庚申塔があり、中世寺院の杉本坊がこのあたりにあったと考えられないか?

                  

C2(石なし) 未採寸 破損していて全貌は不明。漆原家の塀に立てかけている。
梵字が二つ並んでいるのは特殊。左側はキリークであるが、右側のがわからない。蓮華座付き。二重線と枠線は確認できる。 

未調査のもの
(石62) 106×36×6 名号 国分寺

(石63) 90×38×6 名号 国分寺

(石64) 191×71×9 標識記載なし 国分寺

62または63と思われるものが文化の森博物館に展示されている。

          
国分寺北の交差点に遍路石(道標)があり、その奥に板碑と判定できない青石の板が数枚並んでいる。右端のにはたくさんの盃状穴があり、板碑だと名号板碑に特に多いので、参考まで。 

D 観音寺
    
         
               

D1(石65) 94×35×6 名号板碑 盃上穴あり 板東氏邸内

D2(石66) 78×62×7 不明 盃上穴あり 上記の背後にあり 

                
                             
D3(石67) 150×63×10 五大種子と思われる。上部が欠損した後、山形に整形したと思われる。
       盃上穴あり 舌洗い池西側

未調査のもの
(石68) 150× それ以外にデータの記載なし 他に二基 とある。 


E 中


E1(石45) 地130×53×9 アビラウンケンの梵字 千僧庵墓地
 
                

E2(石69) 地147×62×10 キリークの梵字とそれ以外に何か彫ってあるように思える。
       千僧庵墓地 盃上穴あり


E3~7 近藤種苗南方の田畑の中に、以前は庵だったと思える草むらの中に並んでいる。草が激しいので改めて調査しなくては。手前から順に、

E3(石なし) 大型板碑 天蓋付のキリークであろうか?2本線に切れ込みがある。

E4(石なし) 大型名号板碑

E5(石なし) 中型名号板碑

E6(石なし) 地上高は低いが中型と思われる。判読は困難。

E7(石なし) 中型弥陀三尊



E8(石なし) 地116×40×5 標識の判定は困難だが、下部に蓮華座を確認できる。道路わきの生け垣に囲まれた墓地。右となりの五輪塔も古さを感じる。

F 早淵



福万寺の板碑3体、右から順に、

F1(石なし) 地165×70×10 名号板碑、蓮華座あり

F2(石なし) 地110×36×9 名号板碑に思える

F3(石25) 地176×48×12 弥陀種子


G 府中


G1(石49) 90×50×6 弥陀三尊となっているが剥落しているため要確認。老人ホームライムから東へ行ったところの墓地に。


G2(石50) 地52×22×3.5 弥陀三尊 国府宮境内

G3(石51) 地71×44×7 上記の近くにあるのだが、破損がひどく判定が困難である。


G4(石52) 35.5×17.5×3.5 弥陀三尊 国府宮北側の庚申塔などが並んだ場所に。

                  
G5(石53) 100×33×7 名号板碑 裏側に盃上穴あり。府中駅北方。



大坊千輻寺の中庭に2体並んでいる。右側の弥陀三尊板碑は少し離れた庭木の下にあったのを移動したとのことである。

G6(石18) 地112×52×7 アビラウンケンの梵字 右意趣者為逆修善根頓証仏果 応永三十三年十月十五日結衆敬白 (1424年)

G7(石なし) 地40×24×3 弥陀三尊 右志者為と応永四年が読み取れる。


G8(石10) 地109×31×4 二尊種子(上が不空成就如来、下が大日如来の種子と考える) 右志者為光者○霊三十三回 貞治五年丙午年(1366年)八月時正中 府中田淵岸宅内 二つに割れているが標識や銘記は非常に良い状態である。


G9(石なし) 地57×35×4 キリークと思われる。岸家の南の畑の中にある。畑の手入れをしていたおばあちゃんの話だと、行き倒れのお遍路さんのための墓石だとか。ありえない話だとは思うのだが。


 
G10(石なし) 地87×35×6~8 バク(釈迦如来)と考える。蓮華座あり。
G11(石なし) 地81×35×5~8 上部が無くなっており、最上部に蓮華座が確認できる。

岸家南西の岸家所有の水田の中に位置する。幅がG9と同じなのでもしかするとG11の上部なのかもしれない。
G10とG11は幅・厚みが同じなので、双式板碑っていうのかな?


府中駅の西方、中筋の民家の裏手の墓地に超小型のが3体並んでおり、丁重に祭られている。古風な五輪塔断片もあり古さを感じる。コンクリートで固められているため、大部分の判定は不可能である。写真左から、

G12(石なし) 地13×15×3 二重線とキリークが読み取れる

G13(石なし) 地23×19×3 二重線とキリークが読み取れる

G14(石なし) 地30×25×4 剥落がはげしくのっぺらだが板碑であると確信する。

左手ほうの墓のようなのには弥陀三尊と南無阿弥陀仏と彫ってあり、元禄二年と読める。戒名がないので墓ではないのかもしれない。

                          

 府中駅の西の踏切から少し北に行ったところに、重田家の墓地があり、その中に祭られている。

 G15(石なし) 弥陀三尊 入手した資料によると、107×28×3 応永五年

 G16(石なし) 弥陀三尊 二体重なっている後ろので、分厚い。

             


 府中駅の二つ西の踏切北の田の中の墓地。いきさつは別ページを立てています。

 G17(石なし)  地55×27×6~10 標識、二重線、枠線を認めず。

 G18(石なし)  19×20×3 二重線とキリークの一部

未調査のもの
(石2) 70×45×6 弥陀三尊 建武三年 双式板碑


H 南岩延


H1(石39) 100×45×15 名号板碑 田んぼの中に南面して

H2(石40) 65×30×10 弥陀三尊 上記の左側西面して