2017年10月28日土曜日

入田町の板碑

入田町の板碑

 資料には、79から97までの調査がされている。比較的まとまっているのは、健治寺と海見の長楽寺跡くらいなものか。ほとんどが各地区に分散されている。国府町のように通し番号を振りたいのだが、数が違うとか新発見があるとかで、混乱があるので後日考えよう。

内の御田



(石92) 42×14×14 弥陀三尊
県道わきに庚申堂があり道内に、左側と頂部が欠けた板碑が転がっています。


(石91) 40×21×3 弥陀三尊
堂の裏手の墓石らしきものの陰にある。後日(2017.9.9)に通りかかったときには、草が茂っていて確認できなかった。

海見


一宮小笠原家菩提寺「長楽寺」跡と標識には書かれている。一宮小笠原氏は後に、一宮氏と名乗る。


(石80) (92)×40×4 弥陀三尊 右志者〇〇
                  正平七年十一月
(石82) 68×19(残部)×5 弥陀三尊 頂部左側欠損
(石83) (60)×34×8 刻印が深くて大きい
(石84) (72)×22×3.5 弥陀三尊
(石85) 37×29×5 弥陀種子
資料には以上がまとめられているが、写真のように破片が多く、どれがどれに相当するやら?
なおこの場所は草木の繁殖が激しく、土砂崩れも考えられるから、近いうちに無くなってしまうかもしれない。 


海見古塚穴とある。家の裏を少し上がったあたりに祠があり、その周囲に4体が確認できる。写真で祠の手前には、凝灰岩の五輪塔のパーツがある。


(石86)80×28.5×5
(石87)27×18×3.5 弥陀三尊
上の二つが相当すると思われる。下の二つはきびしいか?

月の宮


道路わき、コンクリートの堂内に安置されている。
(石81) 135×45×6 地蔵線刻画像 右志者為〇〇〇云々
                  (明徳元年八月時正)

金治 健治寺


本堂裏手の切り立った崖の中腹に配置されている。


資料には四体記載されている。
(石79) (126)×35×7 弥陀三尊 貞和五年八月
(石88) (67)×30×4 弥陀三尊
(石89) 56×26×4 弥陀三尊
(石90) (47)×28×5.5 弥陀三尊 
写真のは2番目以降の三体と思われる。

天野原


(石93) 45×27×3 弥陀三尊
二つに割れていて、下部が欠損している。周りには、光明真言塔や庚申塔なdふぉがある。

大久


(石94) (103)×43×4 線刻画像

笠木


(石なし) 地32×24×3.5 弥陀三尊

写真手前のは、神山町にたくさんある凝灰岩製の宝塔の一部と思われる。地元の人に聞くと改修工事で出てきたとのこと。入田中学校の東側で、県道からの入り口には六地蔵があることから、以前は墓地だったのではないか?

神の池
 

(石なし) 地78×38×5 おそらく名号、杯状穴がある。数年前にはじめて見たときには、「名号板碑発見」と思ったのだが、今見ると微妙。
西福寺へ県道から入って間もなくののところ。


(石なし) 39×22×5 弥陀三尊 蓮華座付き
手前の丸い石や周囲の緑色片岩などから、壊れたオカマゴの中にあったと思われる。
上記のポイントから少し徳島よりを北に。



(石95) (39)×23×3 弥陀種子
以前に行ったときには、お堂の裏の畔に放置されていたので、堂内に戻した。今のところ無事にあります。資料では安御都真となっているが、間違い。

春日


(石96) (60)×25×5 線刻画像?
阿弥陀堂内にある。


未調査

(石97) 天満 天神社となっているが、見つけることができない。

2017年4月15日土曜日

資料に乗っていない板碑かな?

 森林公園へいった。この日はグッドタイミングで、しかもソメイと枝垂桜が同時に咲いて、例年なら時間差があるのだが。しかも、神山の桜の色が濃い。



 尼が降りそうだったので、そうそうに切り上げ、そのままもっと奥へ走った。明王寺の枝垂桜も満開のようだったが、雨が降っているので、遠目に見ただけでパス。そのまま、美郷を通って帰ることにした。



 193号線に入ってしばらく走り、最後の民家があると思われるあたりで、道路わきにオカマゴを見つけたので車を止めて調査。、ありました。
 二重線と左側の枠線がある。剥落が激しく、上部にかろうじて何かの線刻がある。梵字とか名号では決して無い。思いついたのが、宝篋印塔。相輪なのではないか?

 

 以前、この道路を通った時にお堂があって車を止めて調査したところ、道路わきにオカマゴがあって、その中に線刻五輪塔板碑を発見した。これも資料にないと思われる。上記のポイントのすぐ下の集落。


 これも、別の機会に撮ったもの。場所は明王寺の裏の墓地。かなりな大型で、たばこの箱と比較してほしい。
 二重線と枠線は確認できるが、剝落が激しく、標識がわからない。上のほうに二重円が見て取れるので、画像かなとも思うのだが?

2017年3月24日金曜日

上八万小学校南の墓地

 ドライブがてら佐那河内の安喜古墳とそこにある板碑をチェック。内部に四体と離れた墓石の背後に二体を見ることができた。これで佐那河内制覇できたので、後日ブログに纏めよう。
 帰り道、エージェントが見つけていた表題の墓地に回った。


 (石なし) 地49×29×5 南北朝期の弥陀三尊と判定。


 (石なし) 地105×35×5 名号板碑


 これって、でことんだから九州型板碑ってやつではないのかな?現場では何とも思わずに適当に写真を撮ったのだが、PCで確認すると、五輪塔が2基浮き彫りされているではないか。



 並べられてい状況がわかる。両端に一石五輪塔、中央に五輪塔。五輪塔の年紀が読めそうで読めない。
 
 ここの墓地には、元禄何年ていう年紀の墓が非常に多い。「何でじゃろう」と疑問がいっぱい。


2017年3月20日月曜日

内谷佐藤氏宅北側

 石井町内谷には、たくさんの板碑があるので、蛇とか蜂とかが出てくる前に頑張ってみた。仙谷氏の竹やぶの中は、氏やご家族にもお聞きしながらだったが、性人谷がどうしてもわからなくて、竹藪の中で悪戦苦闘したが不発。
 佐藤氏宅では、家人の許可を得ておよその場所も教えてもらい突入した。以前に車を止めて狙いをつけていたのだが、篠竹が生い茂っているので見つけられなかったが、今回は畑のほうから入れさせていただいた。


 これがほぼ全体像。この右手には江戸時代などの墓が並んでいるが、お祭りはしていない模様。写真の奥の透いたところは、以前に狙いをつけたまさにその道路。ストリートビューにもわずかに写りこんでいるが気が付かなかった。畑からのすぐなのだが、竹がすさまじくて、体の自由が利かなかった。調査をして最後にこの写真を撮ったのだが、かなりの竹を踏み倒してやっと全体を撮ることができた。

 石井町の資料では七体が記されているが、それ以上にあったので、忘れないうちに記録しておく。


 石井地区17 121×36×5 名号 いちばん道路側
 石井地区18 92×38×10 名号


 石井地区19 110×37×10 名号


 石井地区20 45×22×3 キリークのみ 下部なし


 石井地区21 55×23×4 キリークのみ 右側欠、下部なし


石井地区23a 98×23×4 名号板碑の下部、あるいは地下部分 写真左部分に蓮華座と佛の文字がある。



加茂名地区の板碑

加茂名地区は、国府町とは鮎喰川を隔てただけであるのに意外と少ない。あるいは残されていないと考えるべきか?


加茂名1(石199) 113×54×7 弘安三年戊辰十月八日 
 文化の森博物館の模造品の説明書きには、種子が金剛界大日如来、阿閦如来、阿弥陀如来あるいは胎蔵界大日如来かもとなっている。私の虎の巻で見ると、違う気がする。
 同好者の読みは、金剛界大日如来、馬頭観音、普賢菩薩。
 枠線内の細工も緻密で、下のほうでは段が付いている。掘りも深いし、二重線の細細も傾斜が付いていて、きれいに出ている。これで鎌倉時代では、ちょっと??
 西部公園のすぐ下の墓地。



加茂名2(石なし) 寸法未測定 名号板碑のように思える。鮎喰町1丁目


加茂名3(石なし) 寸法未測定 名号板碑のように思えるが?庄町5丁目
 上記二体はストリートビューで見つけることができる。


加茂名4&5(石なし) 寸法未測定 二重線はわかるのだが、種子が不明。小型でもあるので、応永マスプロタイプと考えている。 加茂名町西名東山。


 加茂名6&7(石なし) 寸法未測定 地蔵院の穴不動(横穴式古墳)の中に収められている。両方とも弥陀三尊であるが、手前のは文字が凝っている。 


 加茂名8(石なし) 地105×36×7 名号板碑
 蔵本球場の南に真言宗の法谷寺があります。境内の東側に、山肌を削って石仏などを並べた片隅に、立っています。
 私のご先祖さん(現在はお引越しした)や本家の墓地などがあるので、しょっちゅう行っていた場所なのだが、やっと見つけることができました。
 背後の壁面は柔らかい泥質片岩で、ぼろぼろと崩れてきています。近日中に埋まってしまうかも。
 うちのご先祖さんも、玉の中腹にあるのだが、横の崖が崩れてきていて、やがては崩落しそうなので、引っ越ししたとのこと。
 本家の系図によると、この地に来たのは「中富川の合戦」で打ち負けて、蔵本城主の縁で帰農したとあります。残念ながらこの板碑に我が大御先祖様は関係していない。もっともっと前の代には石井の高川原城主とあるので、あのあたりの板碑には関係しているかな?
 この板碑、地形から考えて当初からここにあったわけではない。ならばどこにあったのだろう?このあたりに凝灰岩製の五輪塔のパーツでも残っておればヒントにはなるのだが。