2017年3月20日月曜日

加茂名地区の板碑

加茂名地区は、国府町とは鮎喰川を隔てただけであるのに意外と少ない。あるいは残されていないと考えるべきか?


加茂名1(石199) 113×54×7 弘安三年戊辰十月八日 
 文化の森博物館の模造品の説明書きには、種子が金剛界大日如来、阿閦如来、阿弥陀如来あるいは胎蔵界大日如来かもとなっている。私の虎の巻で見ると、違う気がする。
 同好者の読みは、金剛界大日如来、馬頭観音、普賢菩薩。
 枠線内の細工も緻密で、下のほうでは段が付いている。掘りも深いし、二重線の細細も傾斜が付いていて、きれいに出ている。これで鎌倉時代では、ちょっと??
 西部公園のすぐ下の墓地。



加茂名2(石なし) 寸法未測定 名号板碑のように思える。鮎喰町1丁目


加茂名3(石なし) 寸法未測定 名号板碑のように思えるが?庄町5丁目
 上記二体はストリートビューで見つけることができる。


加茂名4&5(石なし) 寸法未測定 二重線はわかるのだが、種子が不明。小型でもあるので、応永マスプロタイプと考えている。 加茂名町西名東山。


 加茂名6&7(石なし) 寸法未測定 地蔵院の穴不動(横穴式古墳)の中に収められている。両方とも弥陀三尊であるが、手前のは文字が凝っている。 


 加茂名8(石なし) 地105×36×7 名号板碑
 蔵本球場の南に真言宗の法谷寺があります。境内の東側に、山肌を削って石仏などを並べた片隅に、立っています。
 私のご先祖さん(現在はお引越しした)や本家の墓地などがあるので、しょっちゅう行っていた場所なのだが、やっと見つけることができました。
 背後の壁面は柔らかい泥質片岩で、ぼろぼろと崩れてきています。近日中に埋まってしまうかも。
 うちのご先祖さんも、玉の中腹にあるのだが、横の崖が崩れてきていて、やがては崩落しそうなので、引っ越ししたとのこと。
 本家の系図によると、この地に来たのは「中富川の合戦」で打ち負けて、蔵本城主の縁で帰農したとあります。残念ながらこの板碑に我が大御先祖様は関係していない。もっともっと前の代には石井の高川原城主とあるので、あのあたりの板碑には関係しているかな?
 この板碑、地形から考えて当初からここにあったわけではない。ならばどこにあったのだろう?このあたりに凝灰岩製の五輪塔のパーツでも残っておればヒントにはなるのだが。
 

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