2017年3月24日金曜日

上八万小学校南の墓地

 ドライブがてら佐那河内の安喜古墳とそこにある板碑をチェック。内部に四体と離れた墓石の背後に二体を見ることができた。これで佐那河内制覇できたので、後日ブログに纏めよう。
 帰り道、エージェントが見つけていた表題の墓地に回った。


 (石なし) 地49×29×5 南北朝期の弥陀三尊と判定。


 (石なし) 地105×35×5 名号板碑


 これって、でことんだから九州型板碑ってやつではないのかな?現場では何とも思わずに適当に写真を撮ったのだが、PCで確認すると、五輪塔が2基浮き彫りされているではないか。



 並べられてい状況がわかる。両端に一石五輪塔、中央に五輪塔。五輪塔の年紀が読めそうで読めない。
 
 ここの墓地には、元禄何年ていう年紀の墓が非常に多い。「何でじゃろう」と疑問がいっぱい。


2017年3月20日月曜日

内谷佐藤氏宅北側

 石井町内谷には、たくさんの板碑があるので、蛇とか蜂とかが出てくる前に頑張ってみた。仙谷氏の竹やぶの中は、氏やご家族にもお聞きしながらだったが、性人谷がどうしてもわからなくて、竹藪の中で悪戦苦闘したが不発。
 佐藤氏宅では、家人の許可を得ておよその場所も教えてもらい突入した。以前に車を止めて狙いをつけていたのだが、篠竹が生い茂っているので見つけられなかったが、今回は畑のほうから入れさせていただいた。


 これがほぼ全体像。この右手には江戸時代などの墓が並んでいるが、お祭りはしていない模様。写真の奥の透いたところは、以前に狙いをつけたまさにその道路。ストリートビューにもわずかに写りこんでいるが気が付かなかった。畑からのすぐなのだが、竹がすさまじくて、体の自由が利かなかった。調査をして最後にこの写真を撮ったのだが、かなりの竹を踏み倒してやっと全体を撮ることができた。

 石井町の資料では七体が記されているが、それ以上にあったので、忘れないうちに記録しておく。


 石井地区17 121×36×5 名号 いちばん道路側
 石井地区18 92×38×10 名号


 石井地区19 110×37×10 名号


 石井地区20 45×22×3 キリークのみ 下部なし


 石井地区21 55×23×4 キリークのみ 右側欠、下部なし


石井地区23a 98×23×4 名号板碑の下部、あるいは地下部分 写真左部分に蓮華座と佛の文字がある。



加茂名地区の板碑

加茂名地区は、国府町とは鮎喰川を隔てただけであるのに意外と少ない。あるいは残されていないと考えるべきか?


加茂名1(石199) 113×54×7 弘安三年戊辰十月八日 
 文化の森博物館の模造品の説明書きには、種子が金剛界大日如来、阿閦如来、阿弥陀如来あるいは胎蔵界大日如来かもとなっている。私の虎の巻で見ると、違う気がする。
 同好者の読みは、金剛界大日如来、馬頭観音、普賢菩薩。
 枠線内の細工も緻密で、下のほうでは段が付いている。掘りも深いし、二重線の細細も傾斜が付いていて、きれいに出ている。これで鎌倉時代では、ちょっと??
 西部公園のすぐ下の墓地。



加茂名2(石なし) 寸法未測定 名号板碑のように思える。鮎喰町1丁目


加茂名3(石なし) 寸法未測定 名号板碑のように思えるが?庄町5丁目
 上記二体はストリートビューで見つけることができる。


加茂名4&5(石なし) 寸法未測定 二重線はわかるのだが、種子が不明。小型でもあるので、応永マスプロタイプと考えている。 加茂名町西名東山。


 加茂名6&7(石なし) 寸法未測定 地蔵院の穴不動(横穴式古墳)の中に収められている。両方とも弥陀三尊であるが、手前のは文字が凝っている。 


 加茂名8(石なし) 地105×36×7 名号板碑
 蔵本球場の南に真言宗の法谷寺があります。境内の東側に、山肌を削って石仏などを並べた片隅に、立っています。
 私のご先祖さん(現在はお引越しした)や本家の墓地などがあるので、しょっちゅう行っていた場所なのだが、やっと見つけることができました。
 背後の壁面は柔らかい泥質片岩で、ぼろぼろと崩れてきています。近日中に埋まってしまうかも。
 うちのご先祖さんも、玉の中腹にあるのだが、横の崖が崩れてきていて、やがては崩落しそうなので、引っ越ししたとのこと。
 本家の系図によると、この地に来たのは「中富川の合戦」で打ち負けて、蔵本城主の縁で帰農したとあります。残念ながらこの板碑に我が大御先祖様は関係していない。もっともっと前の代には石井の高川原城主とあるので、あのあたりの板碑には関係しているかな?
 この板碑、地形から考えて当初からここにあったわけではない。ならばどこにあったのだろう?このあたりに凝灰岩製の五輪塔のパーツでも残っておればヒントにはなるのだが。
 

2017年3月13日月曜日

板碑かな?

 我が家の周りには、田んぼの中に墓地がいくつも点在している。散歩のコースにも、もちろんたくさんある。あぜ道が冬枯れしているので、ちょっと入って調べてみた。


 墓を並べたコンクリートの台座の背後に建てられている。標識も、二重線も枠線も確認できない。材質は、もちろん砂岩ではなくて、やや白っぽい変成岩で、青石ほどには硬くないと思われる。厚みも均等ではなくて、写真に写っている部分は厚く、下は薄い。プロの仕事ではないように思う。標識や線も、薬研彫りではなく、けがいただけなので風雨で流れたのではないか?・・・などと、勝手な想像。


 台座には、古いスタイルの宝篋印塔のパーツが。


 その奥には、壊され破棄された墓があり、その間に板碑の頭部がころがっている。
応永那マスプロタイプと思われる。六百年の間雨に打たれ、踏んづけられても標識も二重線もしっかり残っている。