2017年4月15日土曜日

資料に乗っていない板碑かな?

 森林公園へいった。この日はグッドタイミングで、しかもソメイと枝垂桜が同時に咲いて、例年なら時間差があるのだが。しかも、神山の桜の色が濃い。



 尼が降りそうだったので、そうそうに切り上げ、そのままもっと奥へ走った。明王寺の枝垂桜も満開のようだったが、雨が降っているので、遠目に見ただけでパス。そのまま、美郷を通って帰ることにした。



 193号線に入ってしばらく走り、最後の民家があると思われるあたりで、道路わきにオカマゴを見つけたので車を止めて調査。、ありました。
 二重線と左側の枠線がある。剥落が激しく、上部にかろうじて何かの線刻がある。梵字とか名号では決して無い。思いついたのが、宝篋印塔。相輪なのではないか?

 

 以前、この道路を通った時にお堂があって車を止めて調査したところ、道路わきにオカマゴがあって、その中に線刻五輪塔板碑を発見した。これも資料にないと思われる。上記のポイントのすぐ下の集落。


 これも、別の機会に撮ったもの。場所は明王寺の裏の墓地。かなりな大型で、たばこの箱と比較してほしい。
 二重線と枠線は確認できるが、剝落が激しく、標識がわからない。上のほうに二重円が見て取れるので、画像かなとも思うのだが?

2017年3月24日金曜日

上八万小学校南の墓地

 ドライブがてら佐那河内の安喜古墳とそこにある板碑をチェック。内部に四体と離れた墓石の背後に二体を見ることができた。これで佐那河内制覇できたので、後日ブログに纏めよう。
 帰り道、エージェントが見つけていた表題の墓地に回った。


 (石なし) 地49×29×5 南北朝期の弥陀三尊と判定。


 (石なし) 地105×35×5 名号板碑


 これって、でことんだから九州型板碑ってやつではないのかな?現場では何とも思わずに適当に写真を撮ったのだが、PCで確認すると、五輪塔が2基浮き彫りされているではないか。



 並べられてい状況がわかる。両端に一石五輪塔、中央に五輪塔。五輪塔の年紀が読めそうで読めない。
 
 ここの墓地には、元禄何年ていう年紀の墓が非常に多い。「何でじゃろう」と疑問がいっぱい。


2017年3月20日月曜日

内谷佐藤氏宅北側

 石井町内谷には、たくさんの板碑があるので、蛇とか蜂とかが出てくる前に頑張ってみた。仙谷氏の竹やぶの中は、氏やご家族にもお聞きしながらだったが、性人谷がどうしてもわからなくて、竹藪の中で悪戦苦闘したが不発。
 佐藤氏宅では、家人の許可を得ておよその場所も教えてもらい突入した。以前に車を止めて狙いをつけていたのだが、篠竹が生い茂っているので見つけられなかったが、今回は畑のほうから入れさせていただいた。


 これがほぼ全体像。この右手には江戸時代などの墓が並んでいるが、お祭りはしていない模様。写真の奥の透いたところは、以前に狙いをつけたまさにその道路。ストリートビューにもわずかに写りこんでいるが気が付かなかった。畑からのすぐなのだが、竹がすさまじくて、体の自由が利かなかった。調査をして最後にこの写真を撮ったのだが、かなりの竹を踏み倒してやっと全体を撮ることができた。

 石井町の資料では七体が記されているが、それ以上にあったので、忘れないうちに記録しておく。


 石井地区17 121×36×5 名号 いちばん道路側
 石井地区18 92×38×10 名号


 石井地区19 110×37×10 名号


 石井地区20 45×22×3 キリークのみ 下部なし


 石井地区21 55×23×4 キリークのみ 右側欠、下部なし


石井地区23a 98×23×4 名号板碑の下部、あるいは地下部分 写真左部分に蓮華座と佛の文字がある。



加茂名地区の板碑

加茂名地区は、国府町とは鮎喰川を隔てただけであるのに意外と少ない。あるいは残されていないと考えるべきか?


加茂名1(石199) 113×54×7 弘安三年戊辰十月八日 
 文化の森博物館の模造品の説明書きには、種子が金剛界大日如来、阿閦如来、阿弥陀如来あるいは胎蔵界大日如来かもとなっている。私の虎の巻で見ると、違う気がする。
 同好者の読みは、金剛界大日如来、馬頭観音、普賢菩薩。
 枠線内の細工も緻密で、下のほうでは段が付いている。掘りも深いし、二重線の細細も傾斜が付いていて、きれいに出ている。これで鎌倉時代では、ちょっと??
 西部公園のすぐ下の墓地。



加茂名2(石なし) 寸法未測定 名号板碑のように思える。鮎喰町1丁目


加茂名3(石なし) 寸法未測定 名号板碑のように思えるが?庄町5丁目
 上記二体はストリートビューで見つけることができる。


加茂名4&5(石なし) 寸法未測定 二重線はわかるのだが、種子が不明。小型でもあるので、応永マスプロタイプと考えている。 加茂名町西名東山。


 加茂名6&7(石なし) 寸法未測定 地蔵院の穴不動(横穴式古墳)の中に収められている。両方とも弥陀三尊であるが、手前のは文字が凝っている。 


 加茂名8(石なし) 地105×36×7 名号板碑
 蔵本球場の南に真言宗の法谷寺があります。境内の東側に、山肌を削って石仏などを並べた片隅に、立っています。
 私のご先祖さん(現在はお引越しした)や本家の墓地などがあるので、しょっちゅう行っていた場所なのだが、やっと見つけることができました。
 背後の壁面は柔らかい泥質片岩で、ぼろぼろと崩れてきています。近日中に埋まってしまうかも。
 うちのご先祖さんも、玉の中腹にあるのだが、横の崖が崩れてきていて、やがては崩落しそうなので、引っ越ししたとのこと。
 本家の系図によると、この地に来たのは「中富川の合戦」で打ち負けて、蔵本城主の縁で帰農したとあります。残念ながらこの板碑に我が大御先祖様は関係していない。もっともっと前の代には石井の高川原城主とあるので、あのあたりの板碑には関係しているかな?
 この板碑、地形から考えて当初からここにあったわけではない。ならばどこにあったのだろう?このあたりに凝灰岩製の五輪塔のパーツでも残っておればヒントにはなるのだが。
 

2017年3月13日月曜日

板碑かな?

 我が家の周りには、田んぼの中に墓地がいくつも点在している。散歩のコースにも、もちろんたくさんある。あぜ道が冬枯れしているので、ちょっと入って調べてみた。


 墓を並べたコンクリートの台座の背後に建てられている。標識も、二重線も枠線も確認できない。材質は、もちろん砂岩ではなくて、やや白っぽい変成岩で、青石ほどには硬くないと思われる。厚みも均等ではなくて、写真に写っている部分は厚く、下は薄い。プロの仕事ではないように思う。標識や線も、薬研彫りではなく、けがいただけなので風雨で流れたのではないか?・・・などと、勝手な想像。


 台座には、古いスタイルの宝篋印塔のパーツが。


 その奥には、壊され破棄された墓があり、その間に板碑の頭部がころがっている。
応永那マスプロタイプと思われる。六百年の間雨に打たれ、踏んづけられても標識も二重線もしっかり残っている。


2016年11月21日月曜日

幻の板碑



          

 石井町高川原を走っていたら、以前は果樹園だったところが、きれいに整地されていて、奥の隅に立っていた。道路からは見えなかったのだ。それで、「石井町の板碑」にも掲載されていなかったのだ。撮影したのは2016年10月23日。この時は、カメラだけしか持っていなかったので数枚撮影しただけ。採寸などは行っていない。

 先日、11月19日にここを通りかかったところ、全くきれいに整地されていて、影も形もない。手前に見える御神さんも、奥に見える墓石も全て無くなっている。どこへ行ってしまったのだろう?すぐ近くの高川原公民館へでもいっててくれればいいのだが。

 


2014年6月22日日曜日

石井町の板碑 P1 高川原地区

石井町の板碑 P1 高川原地区

石井町教育委員会から発行されているのを借りることができたので、それを元に記述する。
本によると、石井町には147基が記載されているが、それ以外にも見ることができる。

本の地域分けに従ってページ構成をする。通し番号の前にアルファベットを付けて地域がわかるように、また本に記載されていないものについては、距離的に最も近いものの番号の後ろにアルファベット小文字を付けて追加とする。

IA 高川原地区
IB 石井地区
IC 高原地区
ID 浦庄地区
IE 藍畑地区

データについては、基本的には本に記載されているのを使用する。


石川神社板碑群

徳島県指定文化財であり、17基並んでいる。右から順に番号が振られている。



IA01 103×43×7  弥陀三尊種子
IA02 88×33×5  弥陀一尊種子
IA03 108×35×9  五大種子
IA04 131×46×7  名号
IA05 145×42×6  名号
IA06 145×52×10  名号 双式
IA07 188×72×10  弥陀三尊種子  裏側に天保十二年の真言の追記がある



IA08 126×46×9  五輪塔型  五大種子  弘安八(1285)年
IA09 113×38×12  阿弥陀画像  乾元二(1303)年 九州型
IA10 84×29×6  弥陀一尊種子  嘉暦四(1329)年
IA11 89×32×5  弥陀一尊種子  文保元(1317)年
IA12 95×42×6  五輪塔型  五大種子
IA13 118×45×12 名号
IA14 52×23×4  弥陀三尊種子  貞治六(1367)年
IA15 67×25×5  弥陀三尊種子
IA16 30×30×4  不明
IA17 37×14×3  弥陀一尊種子  現地では見つけられなかった。


IA17a 67×34×4  名号  市楽の消防小屋の東側の墓地。背後の森が石川神社

               

IA18 90×33×5  阿弥陀画像  元享二(1322)年  顔の右側に錫杖のようなものがあるので 地蔵ではなかろうか? 桜間神社南東隅。


桜間郷の庚申堂に二体祭られている。
IA19 77×68×6  上部のみ残存し、標識はわからない。おそらく画像。 
IA20 50×52×6  キリークの部分のみ残存。


IA21 142×51×6 名号  正応二(1289)年  神社のご神体として、社の奥深く安置されているはず。徳島県有形文化財。



桜間郷西方の墓地に六体残されている。善福寺跡とある。
IA22 89×47×6  名号
IA23 82×32×6  名号
IA24 66・62×70×6  名号、双式
IA25 41×39×5  名号
IA26 39×39×5  名号
IA27 51×34×6  名号


加茂野の地蔵堂裏手に後ろ向きに三体並んでいる。
IA28 45×33×5  名号
IA29 93×35×6  弥陀三尊種子
IA30 43×34×6  名号


高川原公民館分館に三体並んでいる。
IA31 107×49×9  名号
IA32 122×58×7  名号
IA33 66×33×7  釈迦三尊種子 応永三(1396)年。国道192号の拡張工事に伴い、渡内橋東よりここへ移転したとある。
  

IA34 96×34×4 五輪塔線刻 五大種子  文安五(1448)年。公民館南のお宅の裏に祭られている。


さくら保育園駐車場のよこに台の上に七体立てられている。重なっているので表の三体のみ観察が可能。両脇の五輪塔残欠も室町期の古さを感じる。
IA35 80×34×7  弥陀三尊種子
IA36 97×35×4  弥陀三尊種子
IA37 102×34×6  弥陀三尊種子
IA38 84×32×4
IA39 102×32×6
IA40 90×24×4
IA41 100×39×6



IA42 94×51×4  種子不明 画像か?
IA43 80×41×6  種子不明 画像か?


IA43a 蛇が出てきたので未採寸。両側に枠線が確認でき、板碑であるのはちがいないのだが種子がわからない。画像板碑の可能性あり。42・43ともに、さくら幼稚園駐車場から南の藪の中。


IA44 130×52×10 画像板碑のように見受けられるが。高川原小学校北側の墓地。


IA44a 66×32×9  名号  上記の場所を西に進むとある。


IA45 32×35×8  名号
IA46 49×39×5  五輪塔線刻  上記の場所をさらに西に進むとある。


リカオーの北方に馬頭観音・庚申塔などが並ぶところがある。この中に三体の板碑が含まれている。
IA47 45×24×5  名号
IA48 45×24×5  弥陀三尊種子
IA49 107×41×18  弥陀一尊種子 自然石風で二本線・枠線は見受けられない。


IA50 114×56×6  弥陀三尊種子+阿弥陀  二本線も枠線もない。南無もない。弥陀種子の彫りが深く端正。阿弥陀の字体が固い。で、板碑時代のブツではないのかとの思いが強い。


高川原天神の井内宅。未調査。

IA51 138×34×5 弥陀三尊種子 結衆板碑 明徳二(1391)年


IA51a 107×42×10 画像と思われる。二本線・枠線とも確認できない。下のほうに、武智家の墓標としての銘が刻まれており、板碑を墓石に転用したと思われる。


高川原南島の田んぼの中に二体ある。勝手に入るわけにいかず、望遠するのみ。
IA52 88×34×5  弥陀三尊種子
IA53 85×37×6  弥陀三尊種子  永和三(1377)年


IA54 88×70×6  画像板碑の下半分  応永三(1396)年  桜間郷南部



IA55 103×42  弥陀三尊種子  嘉暦二(1327)年  コンクリートで補修されていて、厚みは不明。高川原天満神社の道路を挟んで向かい。見性寺跡。